ABOUT SUMMER CAMP

-HISTORY INTERVIEW- 10回記念(2015年)特別対談

TEXT:荒金良介

Vol.2
成長期〜変革期を振り返る!!

記念すべき第一回目の「SUMMER CAMP 2000」をやってみた手応えはどうでした?

ヨッキ

渋谷ON AIR EAST(現TSUTAYA O-EAST)は1,200人ぐらいのキャパだったけど、500~600人ぐらいしか入らなくて。。。

マサ

1,000人を目指していた覚えはありますね。

ヨッキ

確かこの日は別の場所で大きなイベントがあったんですよ。まあ、とにかく人が来なかった。あと、最初で最後の外タレが出演しました。DEAD WEIGHTというアメリカのバンドです。

マサ

その年にフジロックに出るということで、その前にライヴをしたいと知り合いに言われたんですよ。

ヨッキ

「外タレ入れてくれない?」と言われて、「外タレって、何すか!!」みたいな(笑)。

マサ

僕らも若かったから、外タレならあり!みたいなノリでした(笑)。
DEAD WEIGHTはバイオリン・チェロ・ドラムがいるような3ピースで、フジロックの空気に似合うようなバンド。疾走感のあるロックをクラシカルな楽器でやるバンドで、出演バンドからは面白いね、と言ってもらえた気がする。
でもDEAD WEIGHTのメンバーが酔っ払って、当時は2階に楽屋があったんですけど、その2階の通路からステージを見下ろせる形になってて、その通路の下にPA卓があったんですよ。
それでメンバーがビールをPA卓に零したらしく、壊れましたと会場側から言われちゃって。俺らも1回目で何もわからないまんま、故障したのは事実ですからね。
みんなで分割して半年ぐらい払い続けましたね。その後、PA卓の上に屋根が付いたんですよ(笑)。

ははは、そうでしたか。

マサ

この屋根代は俺らが払っていたんじゃねえか!って話をしてました(笑)。

DEAD WEIGHT側に事情は話したんですか?

マサ

いや、言っても収拾付かないから話しませんでした。それもあり、来年はもうちょっと頑張ろうという気持ちが生まれてきたんですよ。

ヨッキ

それまで次回の話なんて何もしてなかったですね。

サマキャン1回目は完全に初期衝動ですか?

マサ

そうですね。でも1回目をやって、01年には次のステップに行きたい気持ちがイベントをやってる最中に芽生えてきました。

ヨッキ

全部手作りでやってたし、周りの友達が協力してくれたので、それが良かったです。

マサ

みんなでやろう感は出せたと思います。楽しかったですね。

偶然かもしれませんが、00年は「AIR JAM」が終わった年でもありますよね。

ヨッキ

ああ、そうですね。

マサ

一切そんなことは頭になかったですね。それを踏まえて動いていたら、何もできてないかもしれない。

次に行きましょうか。「SUMMER CAMP 2001」ではバンド数が一気に増えてますね。

ヨッキ

01年からツアー形式になったんです。渋谷ON AIR EAST、名古屋ダイアモンドホール、大阪ベイサイドジェニーの3カ所でやりました。

これは憧れだった「DEVILOCK」みたいなイベントにしたい、という気持ちがようやく実現できた感じですか?

ヨッキ

目指すものはありました。

マサ

ヨッキがBROWN BAGGERをやっていたから、横の繋がりも結構あったんです。名古屋、大阪のハコでイベントをやってる人たちが知り合いで、「ツアーやりたいんだけど、協力してくれる?」と言うと、みんな快く手伝ってくれたのも大きかったです。

各場所によって出演バンドは違いますね。

マサ

被っているのはMISSILE GIRL SCOOT、宇頭巻(現UZMK)だけかな。地元に近いバンドに出てもらう形だったと思います。

初の東名阪ツアーはどうでした?

ヨッキ

01年からプレゼント・コーナーをやっていた気がする。

マサ

ここからライオンヘッド(MC)も登場するんですよね。

ヨッキ

これが彼らにとって、初のイベントMCだったんじゃないかな。

どういう繋がりなんですか?

ヨッキ

大学の同級生なんですよ。
ライオンヘッドの前にカマキリバンドというグループで活動してて、深夜のTV番組「ボキャブラ天国」にも出てたんです。
それこそ「LONDON NITE」に一緒に行く友達で、こういうイベントをするんだけど、何かやらない?って誘ったのがきっかけですね。

マサ

でも大阪だけMCをハズしてるんですよ。「なぜ大阪はやらないの?」と聞いたら、「大阪はお笑いのハードルが高いし、臭いも違うから無理!」って。それでナシになりました(笑)。

ヨッキ

ははははは、よく覚えてるね。

マサ

うん(笑)。で、ここからロットングラフティー、G-FREAK FACTORYが出演するようになったのかな。ロットンは初年度の噂を聞いて、出たいと言ってくれたんですよ。

ヨッキ

宇頭巻の紹介で、N∀OKIと初めて電話で話して、それがきっかけで出てもらうことになりました。

例えばロットンは99年結成なので、まだそんなにバンドも知られてなかった頃じゃないですか?

マサ

現場レベルで噂は耳にしてました。スーツ着てライヴをやる姿もかっこ良くて。

ヨッキ

イベント当日、京都から大阪に来る時にロットンの車が故障しちゃって間に合わなくて、急遽出順を変えたんですよ。
で、前のバンドが終わったと同時に到着して、汗だくでステージに上がってました。「じゃあ、行ってくるわ!」って。
で、凄いライヴをやったんですよ。これは彼らもよく覚えてるんじゃないかな。

01年のサマキャン全体の印象はどうですか?

マサ

大変だった思いはないですね。

ヨッキ

楽しくやってましたね。フライヤーも10万部ぐらい刷って、それを手配りで撒いてました。

マサ

そうだね。当時はまだ今みたいにネット環境よりもフライヤーが重要視されていたし、ファッション関係のお店等に置く場所が沢山あったから。渋谷・原宿・下北沢を中心に2人で周る日を決めて、いろんなお店に置いてもらいに行きました。

ヨッキ

それが楽しかったんですよね。

マサ

お店の人と「また今年もやるんだあ」みたいな話もするのが楽しくて。

ヨッキ

01年からイベントの中身も考えるようになりましたね。例えば「STORMY」は憧れのショップで、ちょうど「STORMY」がバイトを募集していたから、仲良くなってプレゼントを貰うために半年ぐらいバイトしたりして。

マサ

当時、ヨッキがお店でずっとHi-STANDARDの『MAKING THE ROAD』が流れてると言っていたのを覚えてます。

ヨッキ

はははは。いろんなバンドの人たちが遊びに来たりしてて、楽しかったですね。難波さんもフラッと来てました。

マサ

当時、カルチャーの発信の重要な場所が「STORMY」でしたからね。

ヨッキ

そんな経緯もあり、実はこういうイベントをやるんですよと言ったら、BMXを3台もくれたんです。

それは凄いですね。

ヨッキ

それをイベントに来たお客さんにプレゼントしました。

マサ

「STORMY」のステッカーも大量に頂いて、当時はそのステッカーだけでも一人歩きするくらい人気がありましたからね。横山健さんがステッカーをギターに張って、Hi-STANDARDをやっていたから、僕らの世代はそのイメージが強いです。

01年は大きなトラブルはなく?

ヨッキ

そうですね。大阪以外は初めてソールドアウトをしたんですよ。東京はギリギリでソールドぐらいの感じで、特に名古屋は半端なかった!

マサ

名古屋は地元のバンドの人気が凄くて。加えて、関東からCHANGE UP、DISPORT、関西からGERUGUGUが来て、スカ色の強いバンドが固まったんです。スカ人気が凄かった時だから、めちゃくちゃ人が来たのを覚えてます。この頃から名古屋はスカが凄いという認識ができました。

ヨッキ

スカ・シーンが確立されてましたね。

マサ

あと、思い出したけど、当時ステージのバックドロップも作れなくて、ブルーシートを買ってきて、知り合いのグラフィティ・アーティストに描いてもらったんですよ。で、smorgasが一発目でPV撮影もすると言ってくれたんですよ。

ヨッキ

東京の日、smorgasの本番前に来門がいないってなったんです。当時、彼はステージに杖みたいなモノを持っていたんだけど、それを家に忘れたらしくて。取りに帰ったみたいで、直前に戻って来てゼエゼエ言いながら、俺はこれがないとステージ立てないんでだよ!と言ってました(笑)。

マサ

一番手からワクワクさせてくれました(笑)。

はははは。

ヨッキ

だけど、お客さんも最初からパンパンでした。

では、「SUMMER CAMP 2002」に行きましょうか。

マサ

この年はクラブチッタ川崎で2デイズやったんですよね。

ヨッキ

そうだ! ここからチッタでやるようになったんだ。

マサ

渋谷ON AIR EASTが改装期間に入ったんですよ。チッタがライヴハウスみたいな形でやらせてくれるというので、2デイズやったんです。

ヨッキ

ライヴハウスと同じシステムでチッタがやろうと言ってくれて、いわゆるチャージバックというシステムなんですけどね。

マサ

ほかのハコは、あの規模感でなかなかそれができないから。

ヨッキ

あと、チッタはドラムセットとか機材を持ってることも大きかったですね。

マサ

いろんな意味で僕らの目線に合ってたんですよ。

02年のサマキャンはどうでした?

マサ

すごく覚えているのはHAWAIIAN6が出てくれたんですよ。ちょうどアルバム『SOULS』が出る前で、その年の8月にリリースするんですよ。出演者の中では当時圧倒的な人気があったけど、客席を見ると、3列目ぐらいまでしか盛り上がってなくて。でもその1カ月後にとんでもない盛り上がりになりました。

まだ知らないお客さんが多かったタイミングですね。

ヨッキ

ジワジワ来てましたけど、『SOULS』リリース後のライヴは凄かったですね。

そう考えると、作品って重要ですね。イベント自体はどうでした?

マサ

この頃はソールドアウトしたっけ?

ヨッキ

東京2デイズにしたから、1日800人ずつぐらい埋まったけど、ソールドにはならなかった。

マサ

そうか。大阪、名古屋はソールドしたんだよね?

ヨッキ

完全にソールドした。凄い人だったもん! あと覚えているのは、この年からRIZEが出てくれるようになったんですよ。それもふとしたことがきっかけで出てくれる事になったんですよ

マサ

うん、当時RIZEは洋楽の影響が強くて。このイベントに出ることで、いろんなバンドがいることを知ってくれたみたいで。

ヨッキ

そうだね。あっくんが「日本にこんなかっこいいバンドいるんだね!」と言ってくれて。

マサ

純粋にそういう反応してくれたのは嬉しかったですね。

ヨッキ

特にスカコア・スカパンクのバンドを観たのが衝撃だったらしくて。

02年は175Rも出演してますね。

ヨッキ

僕がバンドをやっていた頃から仲良かったんですよ。彼らが初めて東京でライヴをやった時も僕らのバンドが対バンしていたり、そういう流れもあったから。

マサ

あと、この年に麻波25がポカリのCMで大ブレイクしたのを覚えてる。

ああ~、「SONS OF THE SUN」ですね。

マサ

この時のステージセットは真ん中を出島みたいにして、それを麻波25が見事に使いこなして、「SONS OF THE SUN」をやったんですよ。お客さんもみんな手を振ってる光景を見て、凄いなって。

ヨッキ

その出島はソールドしなかったから「こんなこともできるよ?」ってチッタから提案してもらって、それが見事にハマりました。あと、この年は宝島社の全雑誌に1ページ・ライヴレポが載ったんですよ。

マサ

それで一気に広がりましたね。

ヨッキ

今考えたら、どれだけの出稿料なんだろって。当時は何も知らなかったから、「smart」に載っちゃったみたいなノリで(笑)。有り難いことに、それをきっかけにサマキャンが浸透したと思います。

マサ

02年ぐらいから“サマーキャンプ”をサマキャンと言われるようになって、サマキャン系と呼ばれるバンドも出てきたんですよ。

そうだったんですか。

マサ

ずっとサマキャンに出演しているバンドは、そう呼ばれてびっくりしてたのを覚えてます。

ヨッキ

まだネットがそこまで普及してなかった時代ですね。とにかく、やることなすこと全てが楽しかったですね。

マサ

この年に名古屋、大阪のバンドも東京に出てもらおうという動きもあって。バンド側から東京公演にも出たい、と言われたことも大きかったです。

なるほど。
そして、「SUMMER CAMP 2003」は前年を踏襲しながらも、福岡が追加されてますね。

ヨッキ

僕がまだバンドを平行してやってる時に初めて九州でライヴをやったんですよ。で、その時に福岡でイベントをやっくれた友達が「なぜ福岡でもやってくれないんですか?」と言ってくれて。やれる土壌があるなら、やってもいいんじゃないかと。

マサ

このタイミングからチッタの人もツアーに同行してくれてね。いままでと違う土地が入るだけでも面白かった。

ヨッキ

02年と03年との違いはMISSILE GIRL SCOOTが解散して、あと10-FEETが出てくれるようになったことですね(笑)。

マサ

02年に10-FEETは「RIVER」(シングル)を出した後だよね。

ヨッキ

毎年誘ってはいたんですけど、なかなかスケジュールが合わなくて。だけど、この年は10-FEETが全会場出てくれました。

全カ所は凄いですね。

ヨッキ

加えてsmorgas・tickの3バンドですね。tickの出演は理由があって、MCのReigo5がその年の春くらいに亡くなったんですよ。
個人的なことになるけど、そこまで身近な友達が亡くなったのは初めてで・・・tickがメジャーでシングル一枚出して、次はアルバムみたいなタイミングだったんです。だけど、そのアルバムが彼の死によってお蔵入りになってしまい、ミクスチャー界隈のバンドはみんな友達だったから、それに対して憤りを感じていたんです。それで、イベントを通して署名活動しようとなったんです。
10-FEETのTAKUMAから初日・福岡のリハーサルが終わったタイミングで「tickはなぜ全カ所出ることになったの?」と聞かれて、経緯を話したんです。それからTAKUMAはtickに対して、いろんなことをやってくれましたね。Reigo5のお母さんが全会場に遺骨を持って来てくれて、ステージのドラム横にそれを置いてライヴをやったんです。

マサ

そういう意味で、この年は普通のイベントとはまた別の意味合いを帯びてましたね。一つのバンドだけに肩入れするのはイベント的にはナシかもしれないけど、みんなで作り上げたイベントだからこそ、そういうことをやれたのかなと。もっと商業的なイベントなら、そんなことはできないでしょうからね。

なるほど。03年はdustbox、HOLSTEINの名前も出てきますね。

マサ

ラインナップを見ると、今のテイストに近づいてるのかもしれませんね。振り返ると、ロットンは2回目からずっと出てくれている(笑)。

お二人の音楽テイストもあるかもしれませんが、03年と言えば日本語パンクが盛り上がっていた頃で、その辺のバンドは出てませんよね。

マサ

昔からの繋がりを大事にしてるところがありますからね。

ヨッキ

ほんとに繋がりが希薄だったことが大きいかもしれない。この年も全会場ソールドではないんだよなあ。

マサ

でも人は入ってたんじゃない?

ヨッキ

人は多かったかもしれない。でも、なんばハッチは厳しかったかも。キャパがでかすぎて、1,800人くらい入りますからね。

「SUMMER CAMP 2004」では渋谷O-EASTが復活しますね。

マサ

改装して出来上がったんですよ。渋谷O-EASTが復活したのにやらないのはおかしいし、でもチッタにはお世話になってるから、渋谷O-EAST始まりのチッタ終わりのイベントにしたんですよ。今でも名前を聞くバンドは、この年から結構増えてますね。04年にオープニング・アクトでS.M.N.に出てもらったのを覚えてる。

04年はミクスチャーやスカというより、メロコア色がより強くなってますね

ヨッキ

確かに色はガラッと変わった印象はありますね。時代が変わったことも大きかったのかもしれない。お客さんもこの時期くらいから世代が変わったんじゃないかな。

マサ

この頃にネットがだいぶ普及して、シーン自体が変わってきた印象はありますね。

ヨッキ

これ言っていいのかわからないけど、イベントに対しても純粋に楽しいだけじゃなくなった気がする。バランスを取るようになったと言うか。

マサ

最初は、僕らもお客さんの気持ちから入ってるから、お客さんが望むものを自然と出せた気がするんですよ。
自分たちも若いし、目線が同じですからね。
段々とお客さんとこっちにギャップが生まれて、考えないとできなくなった気がする。
僕が26歳でヨッキが29歳で、二人とも音楽業界で仕事をするようになり、良くも悪くもいろんなことを考えるようになったんですよ。
お客さんの楽しさにベクトルを合わせるためには、ちゃんと考えないとやれなくなりましたね。

具体的にはどんなことを?

ヨッキ

ブッキングを含めてイベント全般ですね。

マサ

混ざり合わないものを一緒にやるというコンセプトは一緒だけど、僕らとお客さんが思うミックス感が擦れ違ってきたから。
これは僕の感覚だけど、世の中があまりミックス感を求めなくなってきたのかなと。
一つのバンドをじっくり観たい。
そういう風潮になったのもこのあたりですね。
それで自分たちも難しくなってきたのを覚えてます。

それでラインナップも出るバンドのジャンルにも自然と統一感が出てきたと。

マサ

シーンも細分化した時代に入りましたからね。

ヨッキ

シーン全体の動員も減ってる時期で、ワンマンならお客さんは入るけど、イベントは厳しいみたいな。それは以前が異常な盛り上がりだったからかもしれないですね。