ABOUT SUMMER CAMP
Vol.1
誕生! SUMMER CAMP!!
- the First Intention -
ヨッキ
最初はサマキャンじゃなかったんですよ。2人でイベントをやりたいという話を俺から持ちかけたのかな?
マサ
チカラじゃない?
ヨッキ
順を追って話した方がいいですね。もともと『MAD TRIP NIGHT』というイベントを下北沢のシェルターでやっていたんです。
それが99年くらいかな。3カ月に1回のペースでやって、コンセプトはメロコア・ミクスチャー・スカパンクがごっちゃ混ぜみたいなイベントで。
当時、同じジャンル同士で対バンするイベントはあったけど、ミックスすることがあまりなかったから、そういうことをやれたら面白いなと。
バンド側ではなく、イベント側から仕掛けたら、また違う化学反応が起きるんじゃないかみたいな感じでした。で、毎日ライヴハウスでフライヤーを配っている中で、いつも似たようなイベントと被るなあと思って気になっていたんです。
それが恵比寿MILKでやっていた『UP STREAM』というイベントで、DJとバンドというコンセプトでやってたんですよ。それをチカラという奴がやってて・・・今はTHE BAWDIESやgo!go!vanillasの事務所の社長なんですけどね。
そうなんですね。
ヨッキ
そっちはGREST、THE MINNESOTA VOODOO MENとか出てて・・・。
マサ
もっとパンク、ロック寄りでしたね。
ヨッキ
それでチカラに会ってみたいとなり、バンドの紹介でライヴハウスの打ち上げで顔を合わせて。それから仲良くなって、1,000人キャパぐらいの個人でやるイベントが当時はなかったから、00年にチカラと3人で一緒にやったんですよ。
それが00年にやった記念すべき1回目のサマキャンですね。
ヨッキ
そうですね。お互いに呼びたいバンドを出し合ったり、お互いに同意のバンドもいたしね。手分けして声をかけました。
マサ
今から15年前? ヨッキが24歳で、俺が21歳かあ・・・。
めちゃくちゃ若いですね(笑)。
マサ
僕は学生でしたからね。
ヨッキ
僕はバンドをやっていて、就職活動し忘れていたというか、フリーターをやってました。
マサ
(会場は)当時の渋谷ON AIR EAST(現TSUTAYA O-EAST)ですね。
建て替える前のON AIR EASTですね。懐かしい!
ヨッキ
会場の前に広場があるのが良くて。
マサ
コンビニの前に溜まり場があってね。
ありましたねえ。
マサ
だから、当時はお祭り感が出せたんですよ。
ヨッキ
そこで友達がフランクフルトやかき氷のお店を出したりして。
マサ
やってたねえ! 雰囲気は今のサマキャンに通じるものがあったかもしれない。
ヨッキ
みんなで作ってる感じが自然と出てたかもね。
マサ
自分たちの繋がりの中で呼んだバンドばかりだから、そういう色も出てたのかな。
ヨッキ
この中で今でもやってるバンドはSTOMPIN' BIRD・・・。
マサ
宇頭巻(現UZMK)、GOOFY'S HOLIDAY、B-DASHとか。
ヨッキ
U CAN'T SAY NO!やGRESTもまた最近始めたしね。
マサ
うん。まあでも一番ゴリゴリやってるのはSTOMPIN' BIRDだね。(当時から)同じペースでやってるから。
ヨッキ
現役バリバリだもんね。あと、この1回目のメンツだと、ABESTIE BOYSが解散直前だったんですよ。こういうイベントを始めるんだよねと言った時に、「ごめんね!」と言われたのをすごく覚えてます(笑)。
マサ
ヨッキが『MAD TRIP NIGHT』の時からABESTIE BOYSを誘ってて、ずっと出てもらえなくて。この時に念願が叶ったのに最後みたいな話になったんだよね(笑)。
ヨッキ
しかもスケジュールも無理やり合わせてくれたんだよね。「いや、俺ら解散するけど、出してくれるなら調整するよ」って。
マサ
確かABESTIE BOYSの東京ラストが『AIR JAM 2000』の前日で、新宿LOFTだったかな。
よく覚えてますねえ。
マサ
あの頃は若かったから、何でも新鮮でしたからね。
ヨッキ
ははははは。
しかし、お二人みたいに20代前半でイベントやってる人たちは他にもたくさんいました?
マサ
珍しかったんじゃないですかね。今思えば24歳、21歳でやってる人はあんまりいなかったですね。当時は周りがどうこうも考えなかったし、ただ面白いことをやりたい気持ちの方が強かったです。
その二人の初期衝動はどこから来てるんですか? 既存のイベントに遊びに行くだけで、満足しちゃう人もいるわけで。
ヨッキ
俺とマサできっかけは違うんですよ。
俺はBROWN BAGGERというミクスチャー・バンドをやってて、全国ツアーを含めて活発に動いてたんです。
で、福井のイベントに出た時がサマキャンみたいなイベントをやるきっかけのひとつになったんです。福井で1,000人ぐらいのキャパで、対バンは誰?と聞いたらBOY-KEN・ZEEBRA・YOU THE ROCK★、バンドがスケボーキング・BROWN BAGGER、山嵐がキャンセルになったから宇頭巻が出たのかな。オールナイトだし(お客さんは)来ないだろうと思っていたらバンバン入ってるし、みんなすごく楽しそうにしてる。
名もない俺らのバンドもやたら盛り上がるし「何だこれ?」って、最初のきっかけはそれですね。ちょうど『DEVILOCK』のイベントも始まっていた頃だし、そういうイベントをやりたいなというのもあった。
で、バンドもどうしようと悩んでいた時期だったから、マサに相談して何かイベントやろうよってなりました。
ジャンル関係なく盛り上がってるところに引かれた?
ヨッキ
そうですね。ジャンルの壁を越えてるところに魅力を感じました。それがヒップホップとロックじゃなく、もっと狭いコミュニティの中であってもいいんじゃないかと、当時はそういうものがなかったですからね。例えばCHANGE UPのTシャツ着てるキッズが宇頭巻のライヴでダイブしてたら、アガるっしょ!みたいな感じでした(笑)。
ああ〜、なるほど。
ヨッキ
当時は2〜3日に1回5時間ぐらい電話でそんな話をしてました。
マサ
僕はもともと田舎で育って、こういう音楽に興味を持ったのは予備校の時で、それまで邦楽は聴かなかったけどHi-STANDARDがきっかけですね。
それで『AIR JAM 97』に行って、なんだこれ?すげえなって。
お客として行ったけど、もう一歩奥の世界に入りたくなって。
大学でこっちに出てきた時に、予備校の時の同級生がMISSILE GIRL SCOOTに入ったんですよ。
えっ、そうなんですか?
マサ
それがこの世界に急接近したきっかけですね。
MISSILE GIRL SCOOTのライヴにほぼ足を運ぶようになって、そのうちに少し手伝うことになりました。
BROWN BAGGERともよく対バンしていたから、それでヨッキと知り合ったんですよ。
僕も東京の『AIR JAM 97』みたいな雰囲気に憧れがあったし、20歳ぐらいの男の子としてはバンドというバンドとすべて知り合いになりたかったんです。
でも、最初の一歩を踏み込んでも対バンはいつも同じだし、打ち上げで知り合う人も固定化されてくる。そんな時にヨッキから「こういうイベントをやりたいんだよね」と言われて。
自分がオムニバス形式のライヴを観て、いろんなバンドを知ることができたから、そういうイベントをやりたいなと。
二人の考えてることが近かったんですね。
マサ
あと、お互いにキーポイントとして『DEVILOCK NIGHT』のビデオが出た時は衝撃的でしたね。
多感で血気盛んな時期に新幹線で東名阪ツアーして、いい意味で身内ノリを発信してたじゃないですか。凄いなと。
『This is Video Devilock』という97年に出たものですね。
ヨッキ
たしか3,000本限定ぐらいだった気がする。即完したんじゃないかな。すぐにプレミアが付いたんですよ。
マサ
レーベル「1138」から発売したんですよ。当時GMFが「1138」に所属していて、遠藤さんがまとめていたらしいです。それこそ『AIR JAM』世代のバンドはほぼ全員出てくるぐらいのノリで。
どうやって手に入れたんですか?
ヨッキ
普通に買いました。毎日レコード屋に通ってましたから、新しいものが出たらすぐ買ってました。
マサ
僕は当時住んでいたのが静岡の田舎で、これがラスト1本と言われて買いました。擦り切れるぐらい観ましたね。僕は後に「1138」に入ったから、封を開けてないものを保存用に持ってます。VHSですけどね(笑)。
ヨッキ
俺はDVDにして、今でもたまに観ますもん。
マサ
あれは今のライヴDVDにも影響を与えている部分があるんじゃないですかね。オフショットもそこそこ入ってるし。
ヨッキ
裏側を劇的に見せてたもんね。
マサ
しかもあれだけのムーブメントだった時の裏側ですからね。お客さんはステージしか観れないけど、楽屋でこのバンドとこのバンドがジャレてるんだって。そんな他愛もないことも僕らにはすごく新鮮で、今まで観たビデオの中でもトップ3に入りますね。
絶賛ですね(笑)。
ヨッキ
大人になったらわかるけど、当時はインディーズだったのでレーベルの壁もきっと越えやすかったんだろうなと思います。今はインディーズでも厳しかったりしますからね。
マサ
まだカルチャーから来たインディーズの臭いがプンプンしていた頃だったから。楽しかったらOK!みたいな雰囲気もあったし。
ヨッキ
規制がなかったから生まれた産物というか、衝撃的でしたね。
ヨッキさんはどこが衝撃的でした?
ヨッキ
ビデオを観て、中学生の時に観たビデオとリンクした部分があるんです。
70年代のSEX PISTOLSが一台のバスを借りて、みんなでツアーを回ってるブート・ビデオがあって。バスも勝手にペイントして、これ絶対に次は使えないだろって(笑)。世界はすげえってなってました。
『DEVILOCK』もみんなで団体行動して、東京駅から新幹線のグリーン車に乗って、大阪のベイサイドジェニーに着くみたいな。
マサ
東京駅にみんなで遠足みたいに集まってるんですよ。それがワクワクするんですよ! こういうの楽しいだろうなって。で、駅の階段もみんなでぞろぞろと降りて・・・やべえ、かっけえなと。
20代前半の若者にはたまらないですね。
マサ
僕はそれを観たのが20歳だし、ヨッキは23歳ぐらいですかね。
ヨッキ
当時、僕はバンドをやっていたけど2〜3世代先輩なわけですよ。でも、そのブームがあったから自分たちの活動してるシーンも盛り上がってるところがあったんです。俺らの世代でも、ああいうものを作らなきゃダメだなって。
マサ
そういう話はしてましたね。上の世代は憧れだったけど、一番触りたい時期にもっとも手が届かない、雲の上みたいな存在だったから。自分たちでやるしかないよねって。
ヨッキ
そう考えると、夢を叶えられた部分はありますね。
昨年(2014年)開催した時に、俺らからする雲の上の存在として、RADIOTS、NAMBA69、COKEHEAD HIPSTERS、BACK DROP BOMBに出てもらえましたから。
僕たちのイベントであの人たちがライヴをやってる。それだけで嬉しかったです。はじめた頃だったら、絶対この人たち出てくれなかっただろうなって(笑)。
マサ
しかも僕らの世代からすると、憧れのオールナイトのクラブチッタの場にあの人たちがいる。90'sリバイバルというか、勝手に興奮してました。
ヨッキ
『DEVILOCK』のイベントはオールナイトだったんですよ。
マサ
一番ミニマムでやっていた頃だと思います。東京はクラブチッタ・名古屋はダイアモンドホール・大阪はベイサイドジェニーの3カ所で、あれは凄かったですね。だから、僕らも同じ会場でやるのが夢でした。
『DEVILOCK』をある意味継承してると言えます?
ヨッキ
継承というより、影響を受けまくってます。
他の各時代ごとにそういうものはあったのかなと。
さっき話したSEX PISTOLSのツアーもそうです。俺が高校の時、80年代後半から90年代前半だからHi-STANDARDが台頭するちょっと前かな。THE RYDERSが『アナーキーツアー』と言って、一台のバスで全国を回ったりとか。THE STAR CLUBも同じく『傷だらけの天使達』というイベントをやっていて、それを観に行ってました。
ただ、その裏側までは知らなくて。『DEVILOCK』のビデオを観るまではそういう衝撃はなかったんですよ。
ヨッキさん、高校の頃に既にそういうイベントに行ってたんですか?
ヨッキ
頑張って革ジャンとマーチンブーツを買って、それを着て行ってました。
周りにそういう友達はいました?
ヨッキ
同じ学年に2人いて、上の学年だと数人はいました。今もつながってる人はいますよ。KEMURIの津田さんに当時の話をしたら、「よく知ってるねえ!」って感心してくれました(笑)。
二人ともライヴ・デビューが早いですね。
ヨッキ
僕、地元が高円寺なんです。高円寺20000Vに初めて行ったのは中学生でした。超ビビッてましたけど。
マサ
僕は逆に田舎だったから情報だけがバンバン入ってきて、いいなあという憧れだけ大きくなって。
高校の頃はヨッキと違って、さっきも言ったけど予備校に行くぐらいに日本のパンクを知るようになりました。
その頃はインディーズはバブル期を迎えるようになっていたと思います。『AIR JAM』は97・98・00年、全部行ってます。
ヨッキ
98年の頃はまだ自分のバンドをやってて、同じ日に渋谷のGIG-ANTICでライヴがあったんですけど、マジで人来なかったですね(笑)。
あと、僕とマサはもともとの音楽背景が違うんですよ。マサはX(JAPAN)から音楽に入ってるし。
マサ
ビジュアル系から始まり、洋楽を聴き始めて・・・『エクスタシーサミット』のビデオを観て、みんなが武道館のステージで好きなように暴れてるのが面白いなと。
『DEVILOCK』にも通じるものがありましたね。
話が戻るけど、洋楽のインダストリアルやオルタナ、それからパンクを聴いて・・・日本人だけは聴いてなくて。Hi-STANDARDが出て来た頃はちょうど洋楽と邦楽の境目があまりなくなってきたから、それでHi-STANDARDから聴き始めたんですよね。
洋楽はEINSTURZENDE NEUBAUTEN・SKINNY PUPPY・NINE INCH NAILS・WHITE ZOMBIEとか・・・昔は芋づる式に音楽を聴いてたんです。この部分を取ったら、ここに通じるみたいな感じで聴いてました。90年代は幅広く聴けるようになって、ヨッキと噛み合うようになったのかな。
マサさんの邦楽パンクの入口はHi-STANDARD?
マサ
そうですね。お店でずっと流れてて、洋楽だと思っていたら、邦楽で・・・。やべ、俺、日本人をいいと思っていたんだ。でもいいしなあって。
ヨッキ
ははははは。
俺は邦楽から入ってます。中学一年生の頃はバンドブームで、BOØWY・BUCK-TICK・COMPLEXとかが流行ってました。
そんな中、THE BLUE HEARTSやJUN SKY WALKER(S)が好きでした。
それから掘り下げて、LAUGHIN' NOSE・COBRA、それからイギリス・アメリカ・日本のパンクを聴くようになって、結構同時進行でしたね。
中学の時にまだメロコアという言葉が無い時代にSNUFFも聴いてました。高校卒業する頃に『ロンドン・ナイト』にも行くようになって。
そこから音楽を吸収して、次の日に西新宿のレコード屋街に買いに行ってました。
マサ
俺はその頃、地元の静岡にインディーズ・パンクを中心に扱ってるレコ屋があって。あらゆるものを試しに聴かせてもらって、それから一気に広がりましたね。
ヨッキ
ちなみに俺がHi-STANDARDを知ったきっかけは、JET BOYSというバンドなんです。
オノチンさんという方がギター/ボーカルのバンドで、THE RYDERSの元ギターがオノチンさんだったから、当時まだ西口にあった新宿LOFTへ観に行ったんです。全然お客さんがいなくて。
で、そのライブの前座がHi-STANDARDだったんです。
フライヤーで名前は知っていたけど、観たこともなかったからNOFXのパーカーを着たスタッフの人に「Hi-STANDARDってどんなバンドなんですか?」と聞いたら、「メロコア!」って言われて。
メロコアって何だよ!って。
初めて聞いた言葉だった?
ヨッキ
日本のバンドでメロコア? BAD RELIGIONみたいなバンドかなって。
で、ライヴを観たら、サラサラのロン毛と短髪の古着着た爽やかな兄ちゃんがライヴやってる。
えっ、全然パンクじゃねえじゃん。
でもなんかかっこいいなって。でも、お客さんは5〜10人ぐらいしかいなかったです。
その半年後くらいに『LAST OF SUNNY DAY』(94年発表)が出たのかな。
凄い時期にHi-STANDARDを観てるんですね。
ヨッキ
たまたま観ちゃったんですよね。
マサ
そういう話を聞くたびに僕はうらやましい!と思ってました(笑)。
ヨッキさんは一冊本が書けるくらい、パンクの現場をずっと見てますね。
ヨッキ
パンクの歴史本とか読んでも共感できます。今となってはすごく助かってます。
難波さん、津田さんとも当時の話がちゃんと出来るのは嬉しいです。
こないだSNUFFのTシャツを着てたら、難波さんが声をかけてくれて「健君とHi-STANDARDをやるときに、実はSNUFFとかHARD-ONSみたいなバンドをやろう」みたいな話したんだよねって教えてくれました。
確かに『LAST OF SUNNY DAY』は思いっきりそうじゃんって。
マサ
そういう話ができるのはでかいよね。
企画者のお2人に話を聞きたいと思います。まずサマキャンをやろうと思ったきっかけは?